大崎上島町東野-矢弓地区の文化と歴史は、紐解くとロマンあふれる希望の光に照らされています。
後世へと継承する大崎上島の郷土愛は、未来への道しるべとなっています。
大崎上島の文化と歴史とは、郷土を代表とする大崎上島町東野-矢弓地区でもあります。
望月家の祖先とは
鎌倉時代末期に島に渡ってきた望月筑後守常閑という武士を祖先とし、その宗家が望月家であります。
望月家の本業と政治一家・望月家の人々
江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した豪商。本業は、廻船問屋、造船業であり、その他に製塩業、石炭、石灰、牧畜などで財を成し矢弓の港は、望月家の船でいっぱいになりました。
望月東之助氏には、四男四女がおり、その多くが政治への道へ行きました。望月東之助氏は、村長、県会議員を歴任された。望月俊吉氏(長男)は、広島市議、県会議員を務めて望月乙也氏(四男)は、県会議員・県会議長を務めました。そして、明治31年に衆議院議員に初当選して以来、三男の望月圭介氏は衆議院議員13回連続当選。望月圭介氏は「逓信大臣」「内務大臣」を歴任されました。望月家は政治一家でもありました。
門下生からは、二人の内閣総理大臣が誕生
望月圭介大臣の門下生には、大崎上島町と隣接する竹原市吉名・出身である池田勇人氏は内閣総理大臣となりました。池田勇人氏の生家・池田家は望月圭介氏の支援者であります。また、内閣総理大臣となった宮澤喜一氏の父・宮澤裕氏は望月圭介氏の秘書官を務めていました。望月圭介氏の門下から二人の内閣総理大臣が誕生しました。
望月圭介大臣を矢弓の港でお出迎え
当時、望月圭介大臣が東京の中央政界から大崎上島町東野-矢弓に帰ったときは、大勢の大衆が下を向いて提灯を持ってお出迎えした。当時は、大臣の顏を見ることができない時代だった。唯一、望月圭介大臣の顏を見れたのは日向裕一の先祖・和田家。矢弓の港へ大臣をお出迎えして「只今、望月圭介大臣が矢弓に帰られました!」と大勢の大衆に伝えました。
望月圭介大臣の素顔
望月圭介大臣は、書を嗜み、囲碁を楽しむ一面もありました。郷土の伝統行事の櫂伝馬競漕をこよなく愛した人でもありました。そして、望月圭介大臣は硬派な人柄で妥協をしなく信仰心もあり豊かな人間性で人々からは「人情大臣」「念仏大臣」とも言われ親しみられました。
大相撲力士・安藝ノ海
望月圭介大臣は、広島県出身の大相撲力士・安藝ノ海(第37代-横綱)を応援して邸宅に招いていた。安芸ノ海は双葉山(第35代-横綱)の70連勝を阻止した「世紀の一番」としても知られています。また、安藝ノ海は、望月圭介氏が死去のときは墓前でお別れの土俵入りをしました。
戒名「大乗院殿釋桂崖明徳大居士」
望月圭介氏-死去後、従二位、瑞宝章、 勅使・徳川義寛(昭和天皇の側近)御差遣を賜う。
瀬戸の清き景色・心の癒す場所
大崎公園の小高い丘からの「二子島と瀬戸の眺め」は心が癒されます。四季によっての古き良き日本を感じることができて、春には大崎上島の「桜の名所」でもあります。また、大崎公園の頂上には、東屋(あずまや)からの景色、瀬戸の眺めもおすすめです。瀬戸の島々には、名前があります。二子島は、大崎上島に浮かぶ無人島です。小さな島、大きな島にも名前があり、大崎上島には、島々が多くあります。
望月圭介大臣の銅像・郷土の誇りと自信
大崎公園は、代々-和田家の土地であり、現在も望月圭介大臣の銅像が建てられています。銅像は門下の一人である内閣総理大臣となった池田勇人氏が建てられました。
また、大崎上島の有司・名士の尽力などもあり、望月圭介大臣の功績を先人が後世へ伝え残し続けています。
郷土愛精神の詩人・ヒナタ文学-創始者
大崎公園には、郷土-大崎上島の詩人・日向裕一、詩のパネルも設置しています。郷土・古里で詩人・作詞家の仕事・活動などをしています。また、大崎上島で誕生した「文芸雑誌・ヒナタ文学」の創始者でもあり、全国各地へと配布しています。
広島商船高等専門学校の歴史
十三の町村代表を集めた会合によって学校組合をつくり、望月東之助氏の尽力もあり海員学校を設立する議件は明治30年8月5日に成立。広島商船高等専門学校の前身である藝陽海員学校が設立されました。藝陽海員学校は、豪商・因幡屋の宮本家のお屋敷だと伝われています。後に、和田家の古民家を建てるときに藝陽海員学校の木材も使用しています。元々は、広島商船専門学校の前身である藝陽海員学校は、矢弓地区にありました。今現在の土地には学生寮・教職員宿舎となっています。
三原から呉に通じる鉄道建設・現在の呉線
東京の中央政界で活躍した望月圭介大臣は地元住民の悲願である三原から呉に通じる鉄道建設に尽力され完成したのが現在の呉線です。当時の地元住民は、蒸気機関車を見て新しい生活に夢をはせた。
矢弓地区は、厳島神社の発祥地
郷土・広島県大崎上島の民話があります。大崎上島には、厳島神社が三社・建立されています。その中でも大崎上島町東野・矢弓地区にある神社は、厳島神社の発祥地として「継承の地」として言い伝われています。
安芸の国随一の廻船問屋-豪商-宮本家
矢弓・厳島神社を建立したのは、豪商・因幡屋の宮本家、豪商・御下屋の望月家であります。
因幡屋の宮本家は、源氏の血筋と家系であると伝われています。因幡屋の宮本家は、幕末から明治時代には船を38隻保有し蔵が七つもあり安芸の国随一の廻船問屋でした。北前船の寄港地で知られる北海道の松前まで航海し隆盛を誇っていました。矢弓は、大崎上島で最も栄えた地区でもあり豪商・商売人も多くいました。
市杵島姫命(イチキシマヒメ)と大崎上島
広島県・郷土の歴史、伝承によると市杵島姫命は、大崎上島を安住の土地として決めました。ところが、姫の頭上に一羽の雉が糞をして、姫は大崎上島から宮島へと移りました。大崎上島町には、今でも厳島神社が三社あり、矢弓、大串、木江と厳島神社が建立されています。
名工の山根屋源四郎伝篤の作-常夜灯
矢弓-厳島神社には、常夜灯があります。尾道の名工・山根屋源四郎伝篤(1863年)によって作られて建立されました。もし、ここの常夜灯が京都・奈良にあれば国宝級とも伝われています。
望月家・望月圭介大臣の生家
武家屋敷を思わせるこの邸宅は、長屋門を入ると白砂の庭を通ると本瓦葺きの母屋があります。望月圭介大臣の父親・望月東之助氏によって明治8年に建てられた。当時は、広さと静かさで味わいのある邸宅と評判が良かったです。
海と島の歴史資料館(大望月邸)は、大崎上島町の文化財です。広島県の建物百選に選ばれています。
当主・望月東之助氏の貴重な直筆の書
当主である望月東之助氏の貴重な直筆の書は 日向裕一の先祖・和田家にありました。現在は、海と島の歴史資料館(大望月邸)に展示されています。
806年に弘法大師空海が開基
皇室との関係深く、古くは鳥羽天皇勅命の祈願道場として、近くは明治天皇行幸の際の宿泊先になるなど格式の高いお寺。
大聖院は宮島桟橋から歩いて20分、対岸の町並みが望める場所にあります。豊臣秀吉も当山の庭園で何度か茶会を開いているように、ここの閑静な環境と眺めの良さも特徴のひとつです。
霊験あらたかな大聖院
弘法大師ご勧請の弥山の守護神 三鬼大権現をはじめ、秀吉が朝鮮出兵の際に護身仏として祈念した波切不動明王や厳島神社の本地仏であった十一面観世音菩薩。また七福神やお大師様など数多くの仏さまを祀ります。四国八十八カ所と中国三十三観音霊場の御砂踏み道場もあります。中国三十三観音霊場の御砂踏み道場は「戒壇めぐり」は足下にお砂、正面に観音様を拝しています。またその道場は「胎内めぐり」とも呼ばれており、めぐる(観音様の母体を)ことにより生まれ変わる、様々な罪障が浄化されるとも云われております。
宮島真価は弥山の頂上からの眺めにあり
本当の宮島の良さというのは、弥山(みせん)の頂上からの眺めだと言われております。初代-内閣総理大臣の伊藤博文も「宮島真価は弥山の頂上からの眺めにあり」といい、それで現在の登山本道ができたのです。(明治39年 伊藤博文の寄進により弥山登山道の大修理が完成)つまり瀬戸内海とそこに浮かぶ島々の景観。宮島が日本三景のひとつに入っている理由は、「眺め」でもある訳です。
14世ダライ・ラマ法王
2006年には大聖院でチベット仏教の最高指導者である14世ダライ・ラマ法王の弥山開創1200年際講演会が実施されました。
本地仏十一面観音菩薩
平家納経が奉納された本地仏とは神様の本来の姿という考えでこの観音菩薩は嚴島神社の神様の姿として祀られていました。
平清盛らが書写したとされる国宝・平家納経は、この本尊に向けて奉納されたといわれています。明治になると嚴島神社から大聖院に遷され、現在は観音堂に祀られています。
大師修法の1200年燃えゆる霊火
弥山山頂付近にある弥山本堂に虚空像菩薩、三鬼堂には弥山の守護神である三鬼大権現、大師修法の霊火を守る不動明王本尊の不消霊火堂など様々な堂宇が建ち並んでます。
中でも霊火堂にある「きえずの火」は西暦806年に弘法大師が弥山にて護摩修行なされた際に残った火を今現在まで毎日絶えることなく守り続けており、また広島平和記念公園の「ともしびの火」のもと火にもなっています。その霊火で焚かれている大茶釜の霊水を飲むと、万病に効くといわれています。
大聖院の由来
大聖院は真言宗御室派の大本山であり、関西屈指の名刹です。鳥羽天皇の勅願道場として、明治天皇が中国地方を御巡幸された際の行在所になるなど歴代皇室との関係も深くあります。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた厳島の総本坊です。仁和寺と当院は本山と末寺というだけでなく、深く関係を持つ。
仁和寺第十二世門跡から十五世門跡までは京都の大聖院という仁和寺塔頭にて法務を執られていたこともあり、第二十世任助法親王(厳島御室)が法流宣布の為に厳島大聖院に御止住せられたのは先ほど述べたように仁和寺塔頭に大聖院があった為特に厳島大聖院を法流相伝の御室に充てられたものと思われる。
また当山の本堂は鳥羽天皇の勅願道場であり、仁和寺第五世覚性法親王は鳥羽天皇の第五皇子です。治承四年(1180)三月の高倉上皇の御社参について記した土御門内大臣源通親公の「高倉院厳島御幸記」には厳島神社の別当寺といわれる所以が示されている。
現在、厳島神社の恒例行事である玉取延年祭(旧暦七月十八日)や、大晦日の鎮火祭は当山から始まったもので、神仏習合の密接な関係が伺われる。
座主・吉田正裕氏にヒナタ文学1号から応援をして頂いています。
座主・吉田正裕氏から日向裕一が28歳のときにご推薦して頂いています。
大聖院の公式ホームページとヒナタ文学堂の公式ホームページを相互リンクして頂いています。
2006年
14世ダライ・ラマ法王の講演会と法話会に日向裕一も出席した。
14世ダライ・ラマ法王
「弥山開創1200年祭講演会」出席
14世ダライ・ラマ法王
「前行法話会」出席
14世ダライ・ラマ法王からの「良い種を蒔くことは、良い原因と良い結果を結ぶ。良い種を蒔き続けて行きなさい」のお言葉に感銘を受けた日向裕一は、文芸雑誌ヒナタ文学の種蒔き(配布)を継続する決意しました。
2009年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ」をご推薦して頂いています。
2011年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ6」にてご執筆して頂きました。
題名「平和 穏やかな暮らし」
2012年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ7」にてご執筆して頂きました。
題名「心の豊かさと素直な気持ち」
2013年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ8」にてご執筆して頂きました。
題名「命の尊さ」
2014年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ9」にてご執筆して頂きました。
題名「日本人の心」
2015年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ10」にてご執筆して頂きました。
題名「善い出会い・善い人生」
2018年
座主・吉田正裕氏に
「ヒナタ文学シリーズ11」にてご執筆して頂きました。
題名「思いやるの心ゆるす心」